2025年7月24日プロレスラーのハルク・ホーガンさんが逝去されました。
故人のご冥福を心よりのお祈り致します。
長くプロレス界の「超人」として世界中のファンを熱狂させたハルク・ホーガンさんの訃報から、日本で活躍されていた若い頃に興味を持った方も多いのではないでしょうか。
アントニオ猪木との伝説的な死闘、代名詞となった「イチバーン!」のポーズ、そして入場曲が流れるだけで会場が一体となる圧倒的な存在感は、まさに時代の象徴でした。
一方で、プロレスラーになる前の意外な経歴や、キン肉マンのキャラクターにも影響を与えた人気、さらにはトランプ現大統領との意外な友情の栄光、さらに晩年彼を苦しめた病気や家族(娘を含む)との複雑な関係など、その生涯は栄光と苦悩に満ちています。
この記事では、ハルク・ホーガンの知られざる若い頃の姿から、彼の全盛期、そしてその後の人生に迫ります。
ハルク・ホーガンの若い頃の知られざる顔とは
野球少年からミュージシャンへの道
プロレス界のレジェンド「ハルク・ホーガン」ことテリー・ボレアの若い頃は、意外にもプロレスと異なる世界にありました。
恵まれた体格を活かし、少年時代は野球に打ち込み、将来を嘱望される強打者として活躍していましたが、足の速さや守備力がプロのレベルに届かず断念したと言われています。

高校に入学すると、彼の情熱はボディビルへと傾倒し、後の驚異的な肉体の基礎はこの時期に培われました。

そして大学へと進学すると、学業より強く惹かれたのが音楽活動でした。
プロレスラーのレジェンド「ハルク・ホーガン」として、活躍していた過去は、意外な経歴が重なっていました。
ミュージシャンとしてのハルクホーガン
ホーガンのバンド「Ruckus」は、地元フロリダでは知名度の高く、プロミュージシャンを目指していたホーガンは、その夢を現実とする可能性も高かったそうです。

プロレスラーとして会場を熱狂させ、リング上でのカリスマ性や観客との一体感を生み出す才能は、ミュージシャンとして観客を巻き込み、ステージ上で自分を表現するショーマンシップで得た経験が原点だったと言えます。
伝説のトレーナーとの出会いからプロレスへ
ミュージシャンの夢を追ったホーガンでしたが、自身の巨体とパフォーマンス能力を活かせる将来を考えます。
ホーガンは、プロレスの大ファンで、名レスラーのビリー・グラハムに憧れていた事から、プロレスラーの道を志すことを決断し、この選択が人生の大きな転機となります。
そして、数々の名レスラーを育てたトレーナーとして伝説となっていたヒロ・マツダの道場の門を叩きますが、マツダはホーガンの覚悟が本物であるかを見極めるため、過酷な試練を与えます。
有名なエピソードとして、トレーニング初日にマツダによって容赦なく足を折られたというものがありますが、常人であればここで挫折してしまうところ、ホーガンは数ヶ月後、怪我を完治させて再び道場に姿を現しました。
その不屈の精神とプロレスへの情熱を、マツダに認めさせ、1977年に覆面レスラー「スーパー・デストロイヤー」としてデビューの夢を叶えます。

この出会いと、過酷な試練こそが、後の「超人」ハルク・ホーガンを築き上げることになります。
ハルク・ホーガンは若い頃から世界を席巻した
アントニオ猪木との伝説的な死闘
ホーガンのレスラー人生で、アントニオ猪木と対戦した試合は、大きな分岐点となり、プロレスファンの間で、伝説として語り継がれています。
それは、1983年6月2日東京・蔵前国技館で行われた「第1回IWGP決勝リーグ戦」優勝決定戦です。
この一戦の結末は「猪木舌出し失神事件」として、40年以上が経過した今もなお、「プロレス史上最大の事件」の一つとして、ファンの間で熱く議論され続けています。
衝撃の結末から得たチャンピオンの称号
猪木優勢かと思われた試合は、場外の戦いから、リングへ戻る猪木に向けて、ホーガンが温存していた必殺技のアックスボンバー(L字型に曲げた腕を叩きつけるラリアット)を、猪木の顔面へ完璧なタイミングで叩き込みます。
この一撃を受けた猪木は、再び場外へ吹っ飛び、虚空を見つめて舌をだらりと出したままピクリとも動かず、まるで糸の切れた操り人形のように完全に意識を失ってしまいます。
この結果、ホーガンはKO勝ちを収め、初代IWGP王者となり「猪木舌出し失神事件」として、満員の会場とテレビの前のファンは、言葉を失うほどの衝撃を受ける事になります。

この結末も、勝利した記録だけでなく、大きな衝撃を与え、今なおプロレス界最大のミステリーとまで言われ、記憶に残る試合となったのは、ホーガンの持って生まれたスター性やカリスマ性が成しえたものと言えると思います。
そして「超人」としての強さを、日本のファンに絶対的なものとして刻みつけ、彼を世界のスーパースターへと押し上げる、重要なターニングポイントとなることとなります。
アメリカ帰国後、大ブームとなる「ハルカマニア」現象
「ハルカマニア」とは、ハルク・ホーガンがWWF(現WWE)で巻き起こした社会現象です。
日本から帰国した後の彼の人気は、単なる一プロレスラーの枠を超え、1980年代バブル期のアメリカで、カルチャーの象徴として君臨しました。
ホーガンは、星条旗を背負い、屈強な肉体と陽気な笑顔、そして「お祈りをし、ビタミンを摂り、トレーニングに励め(Train, Say your prayers, and take your vitamins)」という健全なメッセージを掲げ、全米の子供たちのヒーローとなりました。
彼の代名詞であるTシャツを豪快に引き裂くパフォーマンスや、観客の歓声に耳を傾ける「イヤー!」ポーズは、誰もが真似をする象徴的なジェスチャーとなり、社会現象を巻き起こしました。
この「ハルカマニア」の爆発的なブームは、WWFのビジネスを大きく飛躍させました。
レッスルマニアのような大規模イベントを成功させ、テレビでの露出を増やし、プロレスを老若男女問わず楽しめる一大エンターテイメントへと押し上げたのです。
ホーガンの登場は、プロレスをスポーツの範疇を超えた「スポーツ・エンターテイメント」へと進化させるきっかけとなり、その影響力は音楽、映画、グッズ販売など、多岐にわたる分野に及びました。
まさに「ハルカマニア」は、80年代アメリカの明るくパワフルな時代精神を体現するものであり、ホーガンはその中心にいたのです。
WWFでの活躍した数々の栄光
ハルク・ホーガンの若い頃の活躍は、WWF(現WWE)でのキャリア抜きには語れません。
新日本プロレスでの経験を経てアメリカに戻ったホーガンは、WWFのオーナーであるビンス・マクマホン・ジュニアが描く全米侵攻計画の切り札として抜擢されます。
ここから、プロレス史のみならずアメリカのポップカルチャー史にその名を刻む伝説、「ハルカマニア」が幕を開けることになります。
彼のWWFでの栄光は、1984年1月23日、当時のWWF王者で、反米ギミックの象徴だったアイアン・シークに挑戦し、圧倒的なパワーで勝利、WWF世界ヘビー級王座を初戴冠します。
星条旗を背負い、アメリカのヒーローとして誕生した瞬間、会場は熱狂の坩堝と化し、彼の「お祈りをし、ビタミンを摂り、トレーニングに励め」というメッセージは、全米の子供たちの合言葉となりました。
ホーガンの人気を不動のものにしたのは、1985年に始まったプロレス界最大の祭典「レッスルマニア」です。
このイベントは、プロレスを一部のマニア向けの興行から、子供から大人まで家族全員で楽しめる一大エンターテイメントへと変貌させました。
特に象徴的なのが、1987年の「レッスルマニアIII」でのアンドレ・ザ・ジャイアントとの対決です。
この試合は、ミシガン州ポンティアック・シルバードームに集まった9万3173人という、当時の室内スポーツにおける記録的な大観衆が見守る中で行われました。
アンドレはそれまで15年間無敗を誇る「人間山脈」として君臨しており、ホーガンとの対決はまさに「神話」でした。
試合終盤、ホーガンは230kgを超えるアンドレを頭上高く持ち上げ、完璧なボディスラムでリングに叩きつけた一撃は「世界を揺るがしたボディスラム」として語り継がれ、ホーガンは単なるプロレス王者を超え、アメリカの神話的存在、生ける伝説となりました。
他にも、アルティメット・ウォリアーとの王者対決(レッスルマニアVI、1990年)では、お互いのベルトを賭けた「最強対最強」の構図でファンを魅了しました。
結果として敗れはしたものの、ウォリアーを称えるホーガンの姿は、世代交代の象徴として多くのファンの記憶に残っています。
これらの試合は、ホーガンがWWFの顔として、団体を世界的な企業へと成長させる立役者であったことを証明しています。
WWFでの栄光と主要試合の数々とは
1980年~2000年までホーガンがいかに素晴らしい試合を行ったかをまとめました。
新日本プロレスの活躍からアメリカ帰国後は、「ハルカマニア」と称される多くのファンに支持される活躍していました。
年 | 月日 | 試合・出来事 | 詳細 |
---|---|---|---|
1983年 | 6月2日 | vsアントニオ猪木(新日本プロレス) | IWGPリーグ決勝で猪木をKO、優勝 |
1984年 | 1月23日 | vsアイアン・シーク | WWF世界ヘビー級王座 初戴冠 |
1987年 | 3月29日 | vsアンドレ・ザ・ジャイアント(レッスルマニアⅢ) | ボディスラムで勝利、伝説試合 |
1990年 | 4月1日 | vsアルティメット・ウォリアー(レッスルマニアⅥ) | 王者対決で敗北、王座陥落 |
1994年 | 7月17日 | vsリック・フレアー | WCW世界ヘビー級王座 初獲得 |
1996年 | 7月7日 | バッシュ・アット・ザ・ビーチ | nWo結成、ヒールターン |
1997年 | 12月28日 | vsスティング(スターケード97) | WCW王座戦で敗北 |
2002年 | 3月17日 | vsザ・ロック(レッスルマニアⅩⅧ) | 世代交代象徴の名試合 |
ハルク・ホーガンの代名詞「イチバーン!」の誕生
日本のプロレスファンにとって、忘れられない彼のパフォーマンスの代名詞に「イチバーン!」があります。
この雄叫びは、彼が新日本プロレス入門の間もない頃の経験から生まれたと言われています。
来日当初は、巨大な肉体を持て余す荒削りなファイトでしたが、アントニオ猪木をはじめとする日本の百戦錬磨のレスラーたちと激しく肌を合わせる中で、その類まれなる才能を急速に開花させていくことになります。
そして、新日本プロレスで、自身の強さと観客を引き込むアピール方法として、右手の人差し指を天高く突き上げ「イチバーン!」と雄叫びをあげる魂のパフォーマンスが誕生しました。
このシンプルかつパワフルなパフォーマンスは、日本のファンの心を瞬時に鷲掴みにし、彼は新日本のトップ外国人レスラーへと上り詰めます。
黒のショートタイツに白字で「一番」と染め抜かれたコスチュームや、日の丸が描かれた鉢巻は、彼が日本という国とファンを深くリスペクトしていたことの証であり、この「一番」という言葉は、後に彼がアメリカで大ブレイクした際に逆輸入され、「ICHIBAN」=「No.1」を意味するクールな日本語として広く知られることになります。
ハルク・ホーガンの入場曲が示す存在感
プロレスラーの入場曲は単なるBGMではなく、レスラーの存在感を際立たせ、観客を熱狂させる重要な要素です。
ハルク・ホーガンも、活躍した時期のキャラや、演出に合わせたテーマ曲が選曲されて、観客にどれだけイメージを強く与えられるか重要な要素となっていました。
時期 | 使用団体・キャラクター | 入場曲 | アーティスト / 出典 | 特徴・背景 |
---|---|---|---|---|
1980年代前半 | 新日本プロレス・初期 | スター・ウォーズのテーマ | 映画『スター・ウォーズ』 | 巨体と存在感を強調する壮大な曲で登場を演出 |
1982年頃〜 | アメリカ・ハルカマニア初期 | Eye of the Tiger | デリック・アンド・ザ・ドラゴン | 『ロッキー3』テーマ曲。勝利への執念を象徴しファンを熱狂させた |
1985年〜1990年代初頭 | WWF・ベビーフェイス期 | Real American | リック・デリンジャー | ホーガンといえばこの曲。イントロだけで観客が総立ちする。 |
1996年〜 | WCW・nWo結成後 | Voodoo Child (Slight Return) | ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス | 悪役キャラクター「ハリウッド・ハルク・ホーガン」に合わせた反骨的かつクールな曲 |
このように、入場曲は、レスラーの「存在感」をいかに大きくするかが如実に示されています。
キン肉マンのキャラにも影響を与えて大人気なった
ハルク・ホーガンの絶大な人気は、プロレス界の枠を超え、日本の漫画・アニメといったカルチャーにも大きな影響を与えました。
特に、国民的プロレス漫画「キン肉マン」に登場するキャラクターのモデルになったことは、彼の当時の影響力の大きさを物語っています。
それが、「完璧超人」として登場するネプチューンマンです。
ネプチューンマンは読者公募超人の「イチバンマスク」と「ハルクマシーン」を、当時プロレス界で大人気だったハルク・ホーガンとスタン・ハンセンの2大外国人レスラーを融合させたような超人として描かれました。
特に、オールバックにした金髪、特徴的な口ひげ、必殺技は「喧嘩(クォーラル)ボンバー」、さらには右手の人差し指を掲げて「ナンバー・ワン!」と叫ぶ決めポーズは、まさにハルク・ホーガンの要素を色濃く反映しています。
また、「ネプチューンマン」という名前の由来は、当時、新日本プロレスの実況で絶大な人気を誇ったアナウンサー、古舘伊知郎のエピソードが深く関わっています。
古舘氏は、その肉体美と威圧感から、ハルク・ホーガンを「現代に蘇ったネプチューン」というフレーズで表現したことが、キン肉マンの作者であるゆでたまご氏のインスピレーションを刺激し、ネプチューンマンというキャラクター名に繋がったとされています。
このように、ハルク・ホーガンは単なるプロレスラーとしてだけでなく、その唯一無二のキャラクターとカリスマ性、そしてそれを増幅させるメディアの力によって、当時の子供たちやクリエイターたちの想像力を掻き立て、日本のポップカルチャーに深く根付くアイコンとなったのです。
ハルクホーガンの若い頃から現在までの栄光と苦悩
ハルクホーガンの結婚と家族の複雑な肖像
リングでは「超人」ハルク・ホーガンでも、プライベートでは一人の人間であり、夫であり、そして父親です。
彼の家族関係も、若い頃からの華々しいプロレスキャリア同様、栄光とスキャンダルが入り混じる波乱万丈なものでした。
ホーガンは生涯で3人の女性と結婚しており、最初の妻リンダさんとは、メディアを巻き込んだ泥沼の離婚劇を経験し、多額の財産を失うこととなってしまいます。
1回目の結婚と家族との複雑な事情
最初の妻リンダさんとは、1983年に結婚、一男一女を授かり、長女のブルックは、早くから芸能界で活躍しました。
長男のニックはプロレーサーを目指ざすなど、順風満帆の生活を送っていたように思えましたが、その生活は、様々な事情により2009年に離婚という形で終える事になります。
当時の報道によると、離婚の原因は、性格の不一致や、ストレスが理由とありますが、一番の原因はホーガンの不倫だったとされており、その相手は娘ブルックの友人だったことが、ショッキングなスキャンダルとして報じられていました。

長男ニックが起こした悲劇的な交通事故
もう1つの大きな要因は、2007年8月に長男ニックが飲酒運転による交通事故を起こしたことで、ホーガンと家族の運命が大きく狂ってしまったとされています。

この事件はホーガン一家に計り知れないほどの暗い影を落とし、ホーガンは大きな精神的苦悩を負うことになりました。
2回目の結婚生活と離婚
2回目の結婚は、21歳年下のジェニファー・マクダニエルさんと再婚され、約11年間の結婚生活を送りましたが2022年に離婚しています。
その間の詳しい経緯は語られていませんが、離婚の理由は、性格の不一致とメディアに注目され露出が多いストレスが原因とされています。
3回目の結婚生活から最期を迎えるまで
3回目の結婚となった妻スカイ・デイリーさんが、彼の人生最後のパートナーとなります。
彼女はホーガンより25歳年下のヨガ講師で、晩年のホーガンは彼女と共に敬虔な信仰生活を送っていました。
このように、ハルク・ホーガンの家族の肖像は、栄光の裏側に隠された、人間的な喜び、悲しみ、そして苦悩に満ちた複雑なものでした。
ハルクホーガンとトランプ現大統領との意外な友情
ハルク・ホーガンと、第45代アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプ氏。
一見すると接点のない二人ですが、実は35年以上にわたる深い友情で結ばれていました。
この関係は、ホーガンが若い頃、彼が「ハルカマニア」として全米のヒーローだった1980年代後半に始まります。
当時、不動産ビジネスで成功を収めていた若きドナルド・トランプ氏は、プロレスというエンターテイメントが持つ商業的な可能性にいち早く目をつけました。
彼は自身が所有するカジノホテル「トランプ・プラザ」を、WWF(現WWE)最大のイベント「レッスルマニアIV」(1988年)と「レッスルマニアV」(1989年)のメイン会場として提供します。
これらの歴史的な大会で、トランプ氏は単なる会場のオーナーとしてだけでなく、自らリングサイドの最前列に陣取り、公式ホスト役を務めるなど、積極的に関与し、その豪華な舞台の中心で輝いていたのが、当時のスター選手であるハルク・ホーガンでした。
ショーマンシップに溢れ、野心的な二人はこのビジネス上のパートナーシップを通じて意気投合し、これが長年にわたる友情の始まりとなったのです。
ホーガンの訃報に際し、トランプ氏は自身のSNSで「私たちは今日、偉大な友人『ハルクスター』を失った。
ハルク・ホーガンは完全にMAGA(Make America Great Again)として強く、タフで、賢く、そして最も大きな心を持っていた」と深い悲しみを表しています。
エンターテイメントと政治という異なる分野で頂点を極めながらも、二人は互いの持つ圧倒的なショーマンシップや、「アメリカを愛する」という共通の価値観に強く惹かれ合っていたのでしょう。
病気やケガとの壮絶な戦いから逝去まで
リング上では不死身のヒーローのハルク・ホーガンでしたが、過酷なキャリアは、晩年、肉体に大きな代償を与えることとなりました。
2025年7月、自宅で心肺停止状態で発見され、病院に運ばれましたが、残念ながら帰らぬ人となってしまいました。
故人のご冥福を心からお祈りいたします。
なお、現時点で死因は明確になっていません。
ただし、ホーガン自身が過去のインタビューで、レスラー現役時代に、少なくとも25回もの大掛かりな外科手術を受けたとされており、体に相当な負担が掛かっていたことを知ることができます。
その内容は、巨大な体を支える背骨は10回以上の手術、両股関節と両膝は人工関節に置き換えられてるなど驚くべき内容でした。
他にも肩や顔面など、全身にメスが入り、彼の肉体は満身創痍の状態で、一時は歩行さえ困難になり、車椅子生活の可能性も示唆されるほど深刻な状態に陥っていました。
さらに、1980年代から90年代のプロレス界では、筋肉増強剤の使用が広まっており、ホーガン自身も過去の使用について言及したことがあるそうです。
肉体的な苦痛だけでなく、彼の人生には精神的な苦悩も深く影を落としていました。特に2007年の家族の崩壊、つまり24年間連れ添った妻との離婚や息子の重大事故などは、彼を精神的に極限まで追い詰め、自伝では自殺未遂の経験があったことも告白されています。

このように、ハルク・ホーガンの最期は、単一の病気によるものではなく、若い頃からの過酷なキャリアがもたらした身体への累積的なダメージ、薬物使用の影響、そして深い精神的な苦悩が複雑に絡み合った結果であったと言えるでしょう。
ハルク・ホーガンの若い頃の意外な素顔と伝説を総まとめ
- 少年時代の野球では強打者として将来を嘱望されていた。
- 高校時代にボディビルに熱中し肉体を鍛え上げた。
- 大学生時代はミュージシャンとしてプロを目指した。
- バンド「Ruckus」で地元フロリダで人気を博した。
- ビリー・グラハムに憧れプロレスの道を志した。
- ヒロ・マツダ道場での過酷な試練を乗り越えた。
- 1977年に覆面レスラー「スーパー・デストロイヤー」としてデビュー。
- 日本ではアントニオ猪木との試合で、初代IWGP王者となり世界の注目を集めた
- 「イチバーン!」ポーズで日本の観客を熱狂させた
- 入場曲の選曲がキャラクターの変化を象徴した
- キン肉マンのネプチューンマンのモデルになった
- 娘ブルックは芸能界で活動し家族も注目された
- トランプ元大統領とは35年以上の友情を築いた
- 晩年は病気やケガとの闘いの末、2025年に逝去した
以上、ハルクホーガンが栄光を手にするまでの、若い頃を中心に深堀調査した記事でした。
若くして多方面でセンスと才能に溢れ、羨ましいと思いましたが、実は一番の才能は、「努力」と「没頭する力」なのだろうと感じました。
その努力のピースが積み重なり、組み合わって、後のレジェンドプロレスラー「ハルクホーガン」が生まれたと筆者は感じました。
ホーガン全盛期の80年代、当時小学生だった筆者は、当時夜8時から放映のワールドプロレスリングでホーガンの勇姿に歓喜し、翌日学校でパフォーマンスを真似していた事を思い出しました。
大きな成功、栄光の裏では大変な苦悩も背負った波乱の人生だったと思いますが、数多くの人々に大きなムーブメントを起こした功績を手に、今は安らかに眠って頂きたいと思いました。
ご冥福をお祈りいたします。